雨音

情緒などない。脈絡もあまりない。後々の改訂は多々ある。

このタイトルにしたからには、僕がこれから何を語るか、僕を知ってる人なら分かる人もいるのかなと。私がこの世の全概念、全生物、全事象の中で最も綺麗だと信じて疑わないアーティスト、L'Arc〜en〜Cielのことでざいます(L'Arc〜en〜Cielはフランス語で"空に架かるアーチ"→虹の意)。おそらくこれを語るには、必然的に、ラルクだけではなく、今の音楽の興味の体系そのものについて語ることになるのかなと。全ての、本当に完全に根っからの全ての始まりは中1。僕はゲーム大好きマンだったし今でも好きなんだけど、今でも強烈な人気を誇る、名前を言えば男なら、極端な話やったことない奴でさえ知ってるであろう某狩ゲームが好きだった。んで、僕は当時はまだそれをみんな持ってるのに自分は持ってなかったから動画サイトでそれの動画を見てた。その時、ある曲とそのゲームのムービーシーンを組み合わせた動画(いわゆるMADってやつだね)があったんだね、今では消されちゃってるけど。で、その曲がラルクなのかと言われるとそうじゃない。これがAcid Black Cherryの曲だったんだねえ、ここでABCを知ることになるんだけど。そのゲームがやりたかったったからってこともあったけど、当時はその動画ずっと見てた。本当に久しぶりにかっこいい曲見つけたなと思って。で、僕はたまたまその時にABCがセカンドアルバムを偶然販売してたのに、今でもその欠片ぐらいなら要素あるんだけど僕はこのアーティストのこの曲だけ好きとかってのがあるから、一曲すごく気に入ったからと言って他の曲を気にいるとは限らないしむしろその可能性は低くて、そのアルバムもその一曲が入ってないのを確認するや否や買わなかったんだねえ。でもそっから月日は流れて、少しずつ動画サイトでABCの他の曲を聴き始めた。多分これを機に好きなアーティストなら少しハードルが下げるっていう誰しも経験のあることを学んだんだと思う(これは例えば、あなたが今好きなアーティストは、おそらく一発目に聞いた曲とかがすごく良かったんだと思うけど、それから好きになって聴いた曲は、全部それと同じレベルで純粋に自分が一発目に聞いてたとしても前の曲と同じぐらい評価できた?違うでしょ、そのアーティストに期待してるからそれと同じぐらいの出来じゃなくてもある程度聞いて好きになったり流し聞きするようになったりしたことあるよねってこと)。で、そっからABC自体が好きになった。そしたら今度はABCの関連にやたら出てくる他のアーティストが出てくるぞと思って。それを見たら、ABCをやってる人が前やってたバンドなんだねえ。これがJanne Da Arc手塚治虫ブラックジャックのアニメの主題歌の月光花と言えば知ってる人もいるでしょう。これもちらほら聞いてだんだん好きになりはじめ、今となってはJanneのが好きなんけどさ。次。ABCのyasuがやたら神と言う人がいる。誰だと思って調べたらhydeという人で、L'Arc〜en〜Cielのとかいうバンドらしいと。名前ぐらいは当時から知ってた。でもそんな知らなくて、一応アルバム借りてちまちま聞いてた。当時、中3とかの基準は

Janne>ABC>ラルク だった。

それが高1になると、綺麗さに心惹かれるようになり、ラルクって綺麗なんじゃねと気づき、

 

Janne/ラルク>ABCとなった。

 

そして忘れもしない2014年3月22日、人生で初めて正式なアーティストのライブに行った日、L'Arc〜en〜Cielの国立競技場ライブ。ここまで正式なアーティストのライブ行ったことなかったのは偶然じゃなくてJanneを人生初にするためにどれも我慢してとっておいたんだねぇ、んまああんまりにも復活する目星が立たないから、まあラルクなら初めてにしてもいいなと思って行ったんだよね。まあ感想は死ぬほど綺麗だった。特に、metropolisと花葬が綺麗すぎて、なんだろう、あまりにも綺麗なものをみると寂しくならない?前に言ったけど、綺麗なものは 存在がおぼろげなものだと思うから、多分あまりにも綺麗なものってのは、どうやっても届かない距離に気がついて寂しくなるんだと思う。隣に友達がいたのに、それなのに、あまりに綺麗すぎて寂しささえ微かに感じた。そんなもんだからそれ以降自分の中では

 

L'Arc〜en〜Ciel>Janne>ABC

となった。

 

私はL'Arc〜en〜Cielの魅力は綺麗なとこだと思う。なんだろう、確かにライブとかに行きゃそりゃカッコいい面もあるよ、当然ある。だけど、これはそのライブ行った友達とも意見が合致してるんだけど、ラルクにかっこよさはあまり求めてない。カッコいいバンドなら正直他にいくらでもいる。カッコよさなら簡単にラルクに勝てる。そこがあのバンドの唯一の点とは思わない。綺麗、とにかく綺麗。見た目だけの話をしてるんじゃない、むしろ、まあhydeとかはある程度そういう風にする見た目も多少は必要だけど、それより、音楽性のことを言っている。本当に綺麗で、言葉遣いが淡くて脆くて、儚くて、メロディが退廃的で憂鬱的で。基本的に報われなかったり、助からなかったりする、それも失恋したとかなんていう具体的などこにでもある軽いことじゃなくて、例えば前も言った"死んだ恋人の魂を追い求めて輪廻転生を繰り返す"とか"自分が植物状態だから相手が自分に会いに来てくれることを望んでる(のを歌詞でさも女々しい男の片思いに勘違いするように誘導してる)"とか。そして淡い言葉遣いだから、絵で例えるなら、輪郭を薄く薄く描く感じ。歌詞からはっきりこうという物語性は分からない。ラルクは、この曲はこういう経緯でできたとかこれを見てたら思いついたとかは言うけど、おそらくこの曲は何らかのストーリー性があるなって曲の時、それを特に語ろうとしない。で、歌詞もそういうテイストだから、正直、確実にはその曲のストーリー性は分からない。中には「ラルクの歌詞は意味ありげで何を言ってるのかどことなく分からないから怖い」と言う人もいるけどその感覚は当たりだと思う。だから、あくまでも上のも これらしい と言われる解釈。

と言っても当たり前だけど全部の曲が綺麗な訳じゃない。ラルクは活動期間が長いから、普通のアーティストなら初期(前期)、後期で分けられるけど、初期、中期、後期に分けられる。んで、さらにアップテンポ(もしくはそれ系)、バラード系の2つに分けるってのが僕の頭の中のラルクの曲分け構図。分けようと思えばもっと分けられるけど。だから6つの層があることになる。個人的にラルクラルクたる綺麗さを感じるのは中(後)期バラード。中期バラードは全部好きって訳じゃないけどほとんど好きでsell my soul、花葬、metropolis、fate、pieces、あなた。後期バラードだと叙情詩、瞳の住人、Time Slip。この中でpieces、あなた、瞳の住人は退廃的とか憂鬱的ってテイストはないと思う。sell my soulは完璧、ライブとかのverだとキーボードとか装飾の音が薄いから是非借りて聞いて欲しい。おそらく、自分もそうだったけど、まず目立つ系統の曲ではない。でも憂鬱的で退廃的で淡くて儚いって言ってたのが歌詞とか聞きながらこれが一般にどういう曲として解釈されてるのか知って聞けば分かると思う。

 

 

3000字近くなったんだけど、自分の音楽史なのか虹史なのか曖昧となった。おそらくこの文は思い出したり、表現が適切なのを思い出したりして何度かつけたしたりするとは思う。では。4月8.9日の東京ドームライブ 体がなくなっても行きます(狂気)

前から頭に残ってることがあって。意識高い系のネットビジネス講座とかそれをしてる人の垢にフォローされる経験ある人は少なくないと思うんだけど、なんでああも話題が同じというかそれしかないというか。例えばさ、発言内容からして「これbotじゃなくて本当に人が動かしてるやつだ、しかも多分本当に稼いでる」みたいなのと遭遇することもそんなに珍しくはないと思うんだけど、にも関わらず、文の内容がなんて言うんだろ、平べったいというか薄いというか稼、服、食しかねえというか、金の多さを顕示するような内容しかないというか。あと画像とかも誰かと顔つきでちゃんと写ってるのもあまりない。動画なんてほっとんどないね(リアル身バレしたらまずいことでもあんのかな)。んで、文の内容もそうだし、文の表現方法もなんか、今日は〜でした!次は〜です!みたいな。ネットビジネスだから多分周りに進めると嫌な顔されるから知り合いなしで始めて、だから知らない人と繋がるからあえて万人受けで失礼ないようにありきたりな文の表現にしてるのかもしれないけど、そこが、なんだろう、めっちゃ平べったいと感じる。人間味を感じないんだよね。なんだろ、もうちょっと上手く表現つっこんでみるとか別に意識せんでも、普通の垢の時、そんなに表現平べったくないと思うんだよね。それで更に言うならそれで「出会いを大切に」とか言ってると、ん?あからさまに金で繋がるような人しか誘発されないようツイートばかりをしておいて。。。?と正直思うところがある。前からなんでこんな文章が個性を削り切ったような文で人らしくないんだろうと疑問だった。

 

 

 

親父がもうちょっとで帰ってくるらしい。なんか酒をかってきてくれ、では。どろん

"僕は逆さに堕ちて 儚い眠りから覚めてもあの日のように ああ君がそばにいてくれたら"

sell my soul/L'Arc〜en〜Ciel

 

 

"今にも溢れそうな思い出達 枯れないようにゆっくり明日を訪ねて行くから"

pieces/L'Arc〜en〜Ciel

 

 

 

"裸の心なら伝えられた?今となってはもう時の乱気流の中さ"

ivory/GERO

 

 

 

好きなのは言うまでもなく。結構割と本気で好きですよ、知らない酒を潰していくつもりぐらいあるんで。しかしあれだよね、最初はカシスとか梅酒好んで飲んでた癖に一年とか経って「いやあれジュースっしょ笑あれは酒じゃねえ笑」とかいう男共。もう裁きだよね(本当に甘いのが無理になったとかはしゃーない)。散々お世話になった癖に補助輪扱いしやがって。梅酒久しぶりに今飲んでるぞコラ。でもお酒は色々種類あるけどやっぱリキュールってジャンルが興味の入り口になりやすいんじゃないかな、日本の酒だと日本酒と焼酎じゃん。それらの中でも違いはあるけど味の根本は一緒じゃん。リキュールは混合酒という広いジャンルだから素材とかもつくり方も幅広いから本当にいろいろある。僕が好きなリキュールはカンパリってハーブ系のリキュールとキャプテンモーガンっていうバニラの後味がするラム。この二つはもうグラスなしで片手でボトル鷲掴みにして何も入れずに素の味でずっと飲んでられるってぐらい好き。二つとも正反対の味だけどね。カンパリは苦いし、キャプテンモーガンは甘くはないけどバニラの味がする。カンパリならオススメはカンパリグレープフルーツ、キャプテンモーガンならキャプテンモーガンコーラが美味しい。

 

 

昔はここまで自分が酒が好きになるとは思わなかったなぁ。正直、まだまだ知識は浅いけど、そこらへんの大学生よりは少しの知識と、本気で好きな自信ある。一人でもこれ美味しいかなとか思って吟味して飲んだりするし、どこが由来なのかなとか、名前の由来とか調べたりするし。これからもよろしく、酒様。

どうでもいいのは百も承知なんだけど、この漢字一文字って他にどういう単語で出てくるっけと今考えてるけど出てこない。さらにどうでもいいのは百どころか億も承知なんだけど、(その上分かる人もおそらくいないと思うけど)毎回タイトルが漢字一文字なのはネウロの影響です。

 

 

綺麗なものってのは、「存在がおぼろげなもの」であると思うんですね、僕は。綺麗ってのは、例えば死んだ人とか。死んだ人の顔を見て綺麗っていう人がいる。それはおかしくないと思う。感じてる側は生だから確実に存在してるけど、感じられてる対象は存在はおぼろげどころか、もうないよね?多分死体見て可愛い言う人ってあんまいないと思うんだよね(生粋のネクロフィアかな?)。あとは音楽とかもそうだよね、音楽で綺麗と思うものには、音とかもあるけど、僕が完璧に綺麗と思うものは、歌詞に具体性のある単語を入れない。僕が溺愛するラルクの中期バラードがそう。具体性のある歌詞ってのは例えば恋愛とかのをつらつらと書いていく歌詞とか。でもラルクの中期バラードの歌詞ってのは違うんだよね、単語の選び方も具体性を排しているし、ただ二人が失恋したみたいなテイストじゃなくて、例えば僕の好きなsell my soulなら「死んだ恋人の魂を追い求めて輪廻転生を繰り返し続ける」ことが内容で、歌詞の言葉が淡い輪郭しか描かないようにしてる(このテーマも本人達がそうと言った訳ではないけど僕はその捉え方が好きだからそう捉えてる)。だから歌詞に地名とか固有名詞を入れたりされるのも、僕は綺麗で好きな曲だったりすると惜しいなって思っちゃったりする。GEROのIVORYも好きだけど、あれも歌詞の最初の 五丁目八番地 って単語だけが僕は具体性があって好きじゃない。具体性がある歌詞が嫌いって言うより、綺麗なテイストにしてある歌詞には入れないで欲しいって感じかな

 

そうえばルシエル(ラルクのファンクラブ)入会しました。4月8日9日までは何があっても死ねません。

ってのは、如何に一人で時間を潰せるかだと思う。暇の使い方を、ほとんど他人といることでしか解消出来ない人(典型的なのは飲みとか)は個人的には興がないなと思う。一般的には、例えば、飲みとゲームだったら前者の方が人と触れ合ってるからって理由で好まれそうだけど、僕は興という点から言えば、仮にこの二つが「いつも暇を使おうとした時にはそれをしている」と条件がついたなら、後者のがいいと僕は思う、一人での時間の使い方を知っているから。(あくまでもほぼいつもそうしているという条件下なら。例えば暇な時間を一人で本読んだり出かけたりすることも多々する人がちょこちょこ飲んでたりしてたってそれは興がないとは思わない)。後者を、他人と触れ合って何かを知ることは出来ないから有益ではないと言う人もいるかもしれないけど(個人的には僕はいくつかのゲームは本気で自分の感性に底から影響していると思ってるのでそれさえも少し反論を唱えたいところだけどとりあえずはさておき)、「一人で暇を使えるかどうかが興」ということにおいて、実用的か否かなんてはっきり言ってどうでもいいのではと感じる。自分の中に、他人は関係なしとして、何がしたいかがあるかじゃないかなと思う。趣味と興は似て非なるものだと思う。趣味ってのはやってて単に楽しいこと。興ってのはその中の一人で他人を介さずとも出来ることを指すのだと思う。感性は己でコントロール出来ないとは確かに言ったけど、なんだろう、自分が娯楽として時間使う手段が他人がいないとほぼ成り立ちませんってのはなんだか情けない気がしてしまうし、それに頼り過ぎるとそれしかなくなると思うんだよね、暇の使い方。僕は自分が相当歪みに歪みんだ社会不適合者予備軍ぐらいに思ってるけど、そんな自分でも、そんな自分が故だからこそかもしれないけど、絶対的に自信があることがある。それは"自分の中に自分があること" 。これは他人といたら分からない。どんな人、家族でも恋人でも友人でも、他人といたら完全に自分だけの思想とか行動って出てこない。僕にはある、確実にある。もちろん人から言われた気付く自分に関する点もあるかもしれない。でもそれは当然人に対しての行動だから完全に自分の自由な思想とか行動じゃない。この他人が介在しない自分(例えば過去の誰かの助言とかはノーカン、すくなくともその思想や行動の時において。過去まで持ち出すときりがないしそこまで完全に遮断して生きてけないからね人間)ってのが、ある程度はないと人って面白みがないと思うんだよね、例えその場では人に求められたって褒められたりしたって。

 

書くだけ書いて酒のもうと思ったらラムが切れてた。日本酒も切れてた。やることやってから寝ろというお告げなのか。従います。

 

 

 

 

やりたい職が無い訳ではない。でも、弱気な発言と捉えられるかもしれないけど、職場ってのは学校とかの類との同じく、1つのコミュニティな訳でさ。人間誰しもあうコミュニティとあわないコミュニティってのがある。たまにどこでもやってけるってよく言われる人とかいるけど、例えば人間関係がコミュニティで一番気にするとこだけど、職場なら負担する仕事の量とかもあるし、僕は正直どこでもってのは例えそれが人から好かれるスキルを持ってたとしてもどうなんでしょうって思うところはある。んで、だからこそ、僕は自分がそのコミュニティにあわなかった時のために休日とか自分の時間がしっかり欲しいのね。休日のあるないは客観的事実だけじゃん。そりゃ多少は求人とか違うとこもあるかもしれないけれど、あくまでも多少だろうし、あまりにも違えば労働者から声が上がってしまうし。でも人の何があうあわないには客観的事実はないでしょ、個人の感性に委ねられる訳だから。だから、休日とかの自分の安定した時間が欲しいんだよね、仕事に熱中できたり環境に満足できればいいけど、今言った通りそれは実際に入るまで正直ほとんど分からないから(多分インターンもかでも正直期間は短いし分かって30%とかなんじゃないかな空気云々は)、確実な前者が欲しくて。だからさぁ、その前者がない率ぶっちぎり1位の業界に飛び込むってのはどうなんだろうってずっと自問自答してる。間違いなく興味はあるけど、入るためのまず手段から難しいし、入っても休日なんかあってないようなもんだし。

考えたくないねえ仕事なんてなぁ、と。