読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

雨音

情緒などない。脈絡もあまりない。後々の改訂は多々ある。

ってのは、如何に一人で時間を潰せるかだと思う。暇の使い方を、ほとんど他人といることでしか解消出来ない人(典型的なのは飲みとか)は個人的には興がないなと思う。一般的には、例えば、飲みとゲームだったら前者の方が人と触れ合ってるからって理由で好まれそうだけど、僕は興という点から言えば、仮にこの二つが「いつも暇を使おうとした時にはそれをしている」と条件がついたなら、後者のがいいと僕は思う、一人での時間の使い方を知っているから。(あくまでもほぼいつもそうしているという条件下なら。例えば暇な時間を一人で本読んだり出かけたりすることも多々する人がちょこちょこ飲んでたりしてたってそれは興がないとは思わない)。後者を、他人と触れ合って何かを知ることは出来ないから有益ではないと言う人もいるかもしれないけど(個人的には僕はいくつかのゲームは本気で自分の感性に底から影響していると思ってるのでそれさえも少し反論を唱えたいところだけどとりあえずはさておき)、「一人で暇を使えるかどうかが興」ということにおいて、実用的か否かなんてはっきり言ってどうでもいいのではと感じる。自分の中に、他人は関係なしとして、何がしたいかがあるかじゃないかなと思う。趣味と興は似て非なるものだと思う。趣味ってのはやってて単に楽しいこと。興ってのはその中の一人で他人を介さずとも出来ることを指すのだと思う。感性は己でコントロール出来ないとは確かに言ったけど、なんだろう、自分が娯楽として時間使う手段が他人がいないとほぼ成り立ちませんってのはなんだか情けない気がしてしまうし、それに頼り過ぎるとそれしかなくなると思うんだよね、暇の使い方。僕は自分が相当歪みに歪みんだ社会不適合者予備軍ぐらいに思ってるけど、そんな自分でも、そんな自分が故だからこそかもしれないけど、絶対的に自信があることがある。それは"自分の中に自分があること" 。これは他人といたら分からない。どんな人、家族でも恋人でも友人でも、他人といたら完全に自分だけの思想とか行動って出てこない。僕にはある、確実にある。もちろん人から言われた気付く自分に関する点もあるかもしれない。でもそれは当然人に対しての行動だから完全に自分の自由な思想とか行動じゃない。この他人が介在しない自分(例えば過去の誰かの助言とかはノーカン、すくなくともその思想や行動の時において。過去まで持ち出すときりがないしそこまで完全に遮断して生きてけないからね人間)ってのが、ある程度はないと人って面白みがないと思うんだよね、例えその場では人に求められたって褒められたりしたって。

 

書くだけ書いて酒のもうと思ったらラムが切れてた。日本酒も切れてた。やることやってから寝ろというお告げなのか。従います。